老衰する祖父と「生」
タイトルは直感で決めたけど、ばり重くてなんか笑いが出るわ。
この複雑な心境を整理したくて、記事にしてみる。
状況
先日、認知症っぽいと診断されたじいちゃんが、家の中で転んでケガして、入院することになった。
約1ヵ月半の入院生活を経て、じいちゃんは一気に痩せ細って、頬もこけて、目も飛び出た感じになって、自分独りでは立てなくなってしまった。
久しぶりにばあちゃんが待つ実家に帰ったじいちゃんは、ばあちゃんと「もうちょっとがんばるんよ」と泣きながら励まし合ったらしい。
オレが思うこと
「もうちょっとがんばるんよ」って言葉に、正直「もうがんばらなくていいよ」と思ったんよね。
んー、がんばるってなんだろうな。
なんて言うんかな。
「もう死んでくれていい」って言いたいわけじゃないけど、
「がんばってまで生きなくてもいい、今までよくやったよ」って思った、が正確かなぁ。
どうしていいのかがわからない。
これがいちばん正確かもしれん。
これを聞いてオレに何ができるのか。
できることとして、「最期かもしれん」と思ってじいちゃんに会いに行くのが真っ先に浮かんだ。
仕事をちょっと休んで実家に帰省するくらいなら、うちの会社だと余裕でできる。
けど今は、コロナに無症状で感染してて、無意識のうちに持って帰ってしまう可能性もある。
仮にコロナを持って帰ったら、万が一にも感染したら、苦しんで死ぬのは間違いない。
死ぬんなら、老衰で眠るような最期を迎えてほしい。
一方で、
人間だれしも最後は死ぬ、つまり致死率100%なのだから、
オレがコロナにかかっている、または帰省中にかかる確率と、さらにじいちゃんに伝染するっていう数%の確率を考えるよりも、
孫に会える100%を優先した方がいい、って考えもある。
正直どれが最適な解答なのかわからないよね。
とりあえず明日ばあちゃんに電話してみようと思う。
あとは盆栽の写真とかオレがしゃべってる動画を送ったり。
たぶんまだオレのことは覚えてくれてると思うし。
自分が死を前にしたら
じいちゃんのためにどうしたらいいのかは、「わからんけど、とりあえず明日電話する」ってことで置いておいて。
オレ自身が死を前にしたらどうしようか、と考えてみる。
ここでは具体的に、老衰かそれに近い状況で体が不自由になって、余命宣告のように近いうちに死が確定しているとする。
オレはどうするか。
たぶん、何もできないままただ時間だけが過ぎていって、死を迎えると思う。
これは避けようがない気がするけど、こうはなりたくない。
じゃあどうするか。
今から準備しておくしかないかなぁって。
準備っていうのは、やりたいことができる状態を維持するための努力、かなぁ。
例えば、運動して健康な体を維持し続けるとか、
あとは、オレはもともと脳筋だから運動系の趣味が多いけど、ゲームやお絵かきやピアノなど文科系の趣味にも裾野を広げておくとか。
書きながらだけどまとめると、
体が不自由になっても継続できる趣味を見つけておく、その趣味のために必要な最低限のステータスを持っておく、の2つが今できることかなって思う。
あとは「生」へのこだわりかなぁ。
オレのじいちゃんは「特にやりたいこともないし、もう死んでええんじゃがのお…笑」って言っていたけど、
そのあたりから認知症が始まった気がする。
やっぱり「何かをしたい」っていうモチベーションは、
例えただの感情にすぎなくても、自身の生きるエネルギーになっていると思う。
ただ「生きたい」って思うことって滅多にないと思うし
でも「生きたい」って思わないと長生きできないと思う。
「生きたい」って思うよりも、「ネトゲしたい」とか「音ゲーしたい」とか「美少女ゲームしたい」とか、
具体的に「〇〇をしたい」って感情があれば、長生きできて、元気でいられるんじゃないかなって思う。
最後に
ゴールを定めないままに記事を書き連ねていたけど、
まぁゴールとしては、
元気なうちにいろんなことに挑戦して、より多くの趣味や特技を身に着けておくことかなって思う。
もちろん、1つのことに思いっきり専念して磨き上げるのもいいと思う。
1つを極めることは、他の趣味にも転用できることが多いし。
ただ、それは死ぬまでの一生の趣味にできるのか、って考えたときに最適とは限らない気がする。
1つを極めて偏差値80を目指すのは圧倒的な強さを誇るけど、すべてで偏差値65を取るのもまた前者にはないオリジナリティ。
ブログトップに「なんでもやってみて判断する!」って書いているけど、
こういう、何事にも積極的に挑戦してみる姿勢を、大事にしていきたい。
ディスカッション
コメント一覧
まだ、コメントがありません